一周忌。

9月12日。

愛するみなみの一周忌。

人の誕生日や愛犬の誕生日すら覚えていない自分もこの日だけは忘れてない。

 

でも、さすがに一年も経つと当時の悲しみは消え、そこまで思い出に浸ることもなくなった。

毎日あげてた線香も時々灯すだけ。

毎日あげてたおやつもたまに供えるだけ。

 

でも、今日はずっとみなみのこと考えてた。

そっか。一周忌ってこーゆう日なんだな。

 

毎日考えてると辛いから、その日だけ思い出してよって日。

今まで一周忌とか、三回忌ってめんどくさ…って思ってたけど、それはいかんね。

物凄く意味ある日ってことが分かった。

 

でも、ずっと考えてると会いたくて仕方なくなるなー。

車買い換えたから一緒にどこか行きたいなー。

腕枕して寝たいなー。

 

って、なってくるとやっぱり悲しいなー。

今日一日はそんな日。

これから家に帰って酒も入るから、泣いてる姿が目に浮かぶわ(笑)

献杯。

 

 

突然の別れ

前回書いたブログ『おじいちゃんとの生活』
このブログの中でとにかく長生きしてくれれば何でもいいと願ったが、その願いは叶わなかった。
そのブログを書いた5日後にみなみは虹の橋を渡った。

死ぬ時のことを考えたことは何度もある。
ただ、その瞬間は自分の腕の中で…と、望んでいた。
その望みすら叶えられなかった。
せめて、最後の夜ぐらい一緒にいたかったのにな…。

ブログを書いた2日後に入院し、その3日後に病院で亡くなった。
入院当初、命に別状はないだろうと聞いていたのだが、入院3日目の昼に容態が悪化。
電話を受け、病院へ直行する。
現状を聞き、今後の治療方針を聞いて、みなみと面会した。

そこには動く気配もなく、ゼーゼーと苦しそうに息をしているみなみがいた。
その姿はとても弱々しく、本当に辛そうだった。
涙が出た。
とにかく元気になって欲しいと声をかけて、頭を撫でて、身体を触って…。

面会してから2,3分くらい経った頃かな。
ポタっと鼻血が垂れた。
『あっ、鼻血』って思った瞬間、グタっと倒れこみ勢いよく鼻血が出てきた。

『もうダメだ…』
そう、直感した。
死に際には身体の水分が出ると聞くが、それが脳裏をよぎったから。

当たってほしくない直感だったが、みなみは戻ってくることはなかった。
心肺蘇生を試たものの、心臓マッサージをされてる姿が痛々しかった。
数分経過し戻ってくる気配もないのに、もう良いですとなかなか言い出せなかった。
何とかなるとは思わなかったけれど、言えなかった。

まさか、こんな一瞬で別れが来るなんて。
2,3分声をかけて触れて終わりなんて。
辛すぎる…

ある人は『最後に会えるまで待ってたんだよ。』と。
またある人は『最後に飼い主に会えて安心したんだね』と。

…足りない。
僕は自分の腕の中で安らかに逝って欲しかった。
病院のケージの中で死ぬなんて思ってなかった。
それをしてあげられなかったことが物凄く悔しかった。

犬を亡くした経験のある方には最後を看取ることも出来なかった人は大勢いるはず。
その人たちに言わせたら、最後を看取れたのはとても幸せなことかもしれない。
だけど…、やっぱり足りない。
我儘かもしんないけど。

今日で1ヶ月。
みなみがいない日常を心穏やかに過ごせるようになってきた。
まだまだ泣いちゃうこともあるけど、亡くなった時のようにすぐに涙が出ることはなくなったかな。
亡くなってから3日間くらいの間はみなみの名前を聞いたり、顔が浮かんだ瞬間に涙が出てた。

その時はなんでかしらないけど、ごめん…て思ったり、もっとこうしてあげたかった…って思ったり後悔の念が強くて。
でも、今ではありがとう…って感謝出来るようになって。
前に進めたんだと思う。

自分にとってみなみの存在って物凄くでかくて、みなみが死んだら自分どうにかなっちゃうんじゃないかな…って思ってた。
ペットロスになって一週間ぐらい寝込むんじゃないかな…って思ってた。

でも、割と早い段階で前に進めたと思う。
自分がわりとポジティブな性格なこともあるが、2頭目、3頭目の存在はやはり大きい。
もちろんみなみの代わりにはなり得ないが、抱きしめる存在がいたり、散歩にいくことが大きな気晴らしになった。

でも、一番助けられたのは家族やスタッフたちがみなみに対して涙してくれたこと。
その涙をみて『あー、みなみは愛されてたんだ』と感じれたことが誇らしかったんだと思う。

犬を育てることにプライドを持つことは多い。
だから自分の育て方や犬の性格を批判されたらプライドを傷づけられたように感じる。
逆に今回のように涙を流してもらえたら、間違ってなかったと感じる。
肯定されたことがとても大きかったのかな。

犬を亡くしたのは初めての事。
大袈裟ではなく、みなみは今の自分を作ってくれたかけがえのない存在。
しょうもない大学生活を送っていた自分に、やりたいことを教えてくれて、仕事を与えてくれて、夢をくれて、自分の店を持たせてくれて、豊かな生活をくれて。

今、幸せな生活が送れるのはみなみのおかげだと心から思う。
感謝してもしきれない。

つい先日、読んだ雑誌の中でペットの老いに関して書いていた記事があった。
その中で老いを迎えるにつれ金銭的な面や、介護的な面で大変なことがたくさん書かれていました。
その記事を読んで、全て受け止めようと改めて覚悟したはずなのに最後の最後まで金銭的にも、介護の面でも全く世話をかけられなかった。
もっと世話かけなよ…と思うくらい、最後まで理想の子でいてくれたのかな?

そんなおじいちゃんを心から愛していました。
おじいちゃん、本当にありがとうございました。

 

 

おじいちゃんとの生活

何度かブログでも紹介したことがある、みなみおじいちゃん。
僕にドッグトレーナーの道を示してくれた、たいせつなパートナー。

4月に14歳を迎えますます衰えてきた。
皮膚も油っぽくなり、汚れるのも早く、見ていて何だかみすぼらしい。
だけど、とっても愛おしい。
パピーの可愛さや成犬の可愛さとはまた異なるものがあるから。

そんなおじいちゃんとの生活がいつまで続くが分からないから、出来る限りのことをしてあげたい。
最近、酔っ払うとおじいちゃんに対して『今、お前は幸せか?』とか『昔はひどいことしてごめんな』とかを、みなみのお腹に顔をうずめながら喋ってる自分がいる。
迷惑だろーなぁ(笑)
出来る限りのことをしてあげたいとか言いながら、そんな迷惑なこともしてしてるけど、とにかく幸せに長生きしてくれればなんでもいい。

おじいちゃんを見てると昔と変わったなぁと思うところと、年取っても変わんないなぁと思うところが幾つも見つかる。

変わったなぁと思うのは、とにかく一日の大半を寝て過ごすようになったこと。
朝、一緒に寝ているベッドから起こした後、数分後にはいつもの定位置に丸まって寝ている。
こういった仕事をしているので、おじいちゃんとはいつも一緒に職場へ出勤しているのだが、こっちが朝の支度を終えても全く動く気配がない。
なので定位置まで迎えに行き、抱っこして出勤をする。
それがおじいちゃんとの一日の始まり。
以前は『まだ?』と言わんばかりの表情でソワソワしながら玄関で待機してたのにな…。

お散歩中も感じることがたくさんある。
もともと匂い嗅ぎの大好きな子で、そこは年を取っても変わりはない。
散歩に出れば匂い嗅ぎを楽しんでいる。
でも、なんだろう…。
若い頃と比べて器官や感覚にズレが生じてるのかな?

匂い嗅ぎの時間がやたらと長い。
そんなことを感じている時にこんなブログの記事を読んた。
【ドッグアクチュアリー】の『老いとともに暮らす』。
これを読んで、ハッとした。
思っていたことを言葉にしてくれた感じだった。

『嗅覚が衰えてきたというよりもその情報処理に時間がかかるようになったというべきか』
こういった文章が載っていて、物凄くしっくりきた。
嗅覚が衰えてきてることもあるだろうけど、それを処理するための器官が追い付かないんだろうな…って思った。

そう思ったのは他にもこんなことがあったから。

威勢のよい男の子だったこともあってか、外では高らかと足を上げておしっこする。
これは今も昔も変わらない。
でも、昔は足を上げておしっこをし終わってから足を下ろして歩き出していた。
ごくごく当たり前のこと。

でも、最近はおしっこをし終える前に足を下ろすことがある。
片足で支えるのがしんどくなってきたことも関係あるのかな。
ただ、感覚にズレがあるんだろうなと思ったのは、足を下ろした後のこと。

その場でおしっこを終えるまで止まっているなら分かるけど、おしっこをしながら歩きだしてる。
本人はいたって普通の表情をしながら。
でも、おしっこが出てるもんだから『あれっ?』といった感じで動きを止める。
本人の中ではおしっこは終えていたのだろう。

足を下ろしたからおしっこが終わったと思ったのか。
ただただ、おしっこが出てることに気付いていないのか。
答えは分からない。

ただ確実に、本人の感覚にズレが生じてるだろう。
各器官の情報処理が間に合わなくなってきてるんだろう。
そう感じる。

こういったところに物凄く変化を感じる。
今後はそのズレも更に大きくなり、多くの場面で目につくかもしれない。
でもきっと、そんな姿全て愛おしく思える。
今も変わらずおじいちゃんとの生活がなにより楽しい。
とにかく幸せであってください。